2011-12-31

年越しparty


あと10分でこちらシアトルもやっとこさ新年を迎える。
アメリカでは一般的に大晦日の夜パーティーを行い、みんなで飲み明かすというのが恒例のようだ。僕たちもジョイス叔母さんの家にみなで集まりまたぞろ料理を囲んで語り、かつ飲む。今晩のメインディッシュは義母の作る七面鳥で、thanksgivingにも食べたが再び味わえるとはラッキーだ。
ああ、今ちょうど新年を迎えた。隣の部屋だろうか鍋か何かを叩きながら外に向かって大声でHappy new year!!と叫んでいる。アメリカらしくていいじゃないか。我が家族はパーティーで疲れてみな寝てしまっているから静かなもんだけどね。そうそう、シアトルは東部のニューヨークとは3時間の時差があるから、パーティーの最中の9時にテレビでニューヨーク・タイムズスクエアでのカウントダウンをみなで見守って、それからシャンパンを開けて新年を祝うという、これもアメリカらしいことをしたよ。

新年のはじめは年越しパーティーの残り物をそれぞれが持ち寄ってアリス叔母さんの家に集まり、そしてNew year partyに突入するんだって。まったくもってみんななんて元気なんだろう。多分アメリカに来てからおとなしく義母の家でディナーを食べたのは二日しか無いと思う。さあて、明日はどうなるだろうねえ〜。

2011-12-30

湖畔にて


今日は比較的穏やかな日だったかな・・誰の家にも招かれず買い物に行ったり、湖に面した公園を訪れたりと、久しぶりにのんびりした気分で過ごせた。娘たちを連れて遊びに行った公園はお金持ちの豪邸が建ち並ぶ湖畔に面しており、そちらの方を望むとプライベートビーチがあったり、家の敷地から突き出した桟橋には巨大なクルーザーがあったりして、アメリカ社会の持つ格差問題を思い知らされる。何たってこのマーサアイランドにはビル・ゲイツの家もあるのだから、この島の水際のほとんどすべての土地が富豪たちに占拠されていると言ってもいい。
そんな嫌味ったらしい豪邸群を眺めながら、僕は娘たちと遊びまくる。冬のシアトルの天候は日本海側の天気に似て雨が非常に多い。時雨れるといった振り方が毎日あり、すっきりと晴れた日は1日しか無い。それでも気温はそう低くはならず霜が降りたり、凍り付いたりするような日はまだ無いな。緯度が高いため日の入りが4時前で日の出が8時近くと夜がやたらと長い。それでも冬は雪がほとんど降らず、夏は冷涼な気候のため過ごしやすくて住むにはいい場所だと思う。ただどうしても日照時間が短いため、家庭菜園で作物を作るのには不向きかも知れない。一度試してみたいけどね。
妻が言ってたけどこの辺りではブラックベリーが異常繁殖していて皆が困っているそうだ。ちょうど日本の『葛』のような厄介者で、鋭いトゲがある分余計嫌われ者だと言う。確かに周辺を見れば至る所で繁茂していて、夏にはさぞ旺盛なことだろう。もちろんブラックベリーの実がたくさん生るが、もはや皆飽きてしまってほとんど穫る者も無いという。我が家においてはブラックベリーよりもラズベリーの方が元気だが、やはり土地柄というものがあるんだね。そういうことを考えながらシアトルの植生を見るのも楽しいもんだよ。やはり圧倒的に針葉樹系の常緑樹が多くみな巨木だ。反面照葉樹はほとんどなく、この辺からも日照時間の少なさが分かると思う。

2011-12-29

さらば、T/Cよ


長い間引きずってきた課題を一つ解決させることができた。なあに、大したことはない15年近く前に作ったドル建てのT/C(トラベラーズチェック)をやっとこさ片付けることができたというだけ。なんせ2年半も旅していたというのにひたすら貧乏旅行に徹していたためかなりの額が余っていて、その後に2ヶ月ほど旅した時にも使い切ることができずそのままほかって置いたらどんどん円は上がるし、T/Cを購入した郵便局は再編されてしまうしで『まだ使えるんやろか?』と不安になっていたのだ。それが今回の渡米でアメリカに妻と共同で持っている口座にドルのまま預金するチャンスができたので、銀行を訪れ試してみたのさ。
銀行で僕たちの応対してくれたのはインド系の美しい女性でとても親切だった。まず始めにT/Cが使えるかどうか調べてもらったら、かなり古いデザインでセキュリティーも無いに等しいものだけど『まだ、大丈夫です』との返事。ほっとしたのもつかの間、身分証明の段階でパスポートともう一つがどうしても必要になり困ってしまった。日本の免許証はあるものの英語表記は無い。それ以外のものもすべて日本語だし、クレジットカードでは名前しか分からずしかも公的なものではない。『ヤバいな・・』と考え込んでいたら、妻がESTAは?と言い出した。そうか!それがあった。ESTAとはアメリカ政府が入国者に対して課している身分認証システムのことで、僕も渡米前に14ドルを支払い済ませており、その英文コピーを持ち歩いていたのが幸いした。彼女も納得の身分証で問題解決。無事にすべてのT/Cを預金することができた。しかも今回彼女から裏技も含めた様々な情報を教えてもらい、T/Cの預金化以上の収穫があったといえる。それは移民としてアメリカで生きてゆく人たちにとってはとても必要な情報で、それを僕たちも十二分に応用することができるのだ。特に娘たちのためにね。

2011-12-28

多忙


アリス叔母さんの家を10時に訪れ、1時にピザ屋へランチに行き、4時にいとこのローリーの家で再び親戚一同集まってディナーをするという突然の予定変更にももう慣れたよ。しかしこの過密スケジュールでは温水プールに行く暇なんか全くないので、それは明日へとお流れになりました。ローリーの家では相変わらず僕の担当は子供たちの遊び相手で、叔母さまたちがグラスを傾けている階下で僕はジェフと一緒にモンスターになって暴れまくる。あまりにも激しく地下のplay roomを走り回っていたので息は切れ、汗が滴り落ちてくる。ふと膝を見ると履いていたジーンズが見事にパックリ破れているじゃないか!それほど激しく動いていたということだな。
今日もいつもと同様おいしそうな料理が並んでいたのに、僕が子供たちと遊び疲れて上にあがると写真で絵になるほどは残っていなかった。なので今日は料理の写真は無しだ。でも旨かったよ〜。みんな料理が上手だね.

ランチの後に寄った量販店の写真を載せておこう。工場ではないのだよ。倉庫がそのまま売り場になった感じ。4人掛けのソファーなどがそっくり巨大な段ボール箱に入って売られている・・いったいこれをどうやってレジまで持っていき車に載せるんだろう?と思っていたら、ちゃんと日本のシングルベッドくらいの台車が用意されておりましたとさ・・。
そうそう、ランチで注文したピザはsmallサイズにしたけれど、出てきたものは直径30cm以上もあってとても全部食べれんかった。なんでかんでも巨大だわさ。

2011-12-27

大空への夢


今日、航空博物館へ行ったと思ったら明日の午前中は妻の叔母の家を訪問してランチをし、そして午後は姪っ子たちを引き連れてどこかの温水プールへ行き、その後にもう一人の叔母の家を訪ねてディナーをするという僕からみれば猛烈なスケジュールが既に決められており、それに従順に従うしかないのが現状なのだ。

そんなことは明日書くとして、いやはや航空博物館は巨大だった。三女を義母に預けて博物館を訪れていたのでゆっくり見て回る時間は無かったが、一番みたかった第二次世界大戦コーナーをじっくり見ることができたのは嬉しかった。勝手に零戦が置いてあるものと思い込んでいたらよく見ると一式戦闘機三型で、これはちょっと肩すかしだったかな・・。それでも1950年に航空ショーの最中のアクシデントでワシントンレイクに着水してそのまま深さ60mの湖底に沈み、1983年に引き上げられてから徹底的に修理されて蘇ったGoodyear FG-1D Corsairの勇姿には感動したな。しかもこの機は実際に飛べるのだ!この辺の遊び心がアメリカらしくてうらやましい。
その他にもコンコルドに乗ってみたり、JFKも使用したというエアフォース・ワンの機内をじっくり眺めながら『トイレは普通だよな・・』なんてつまらんこと突っ込んだりして楽しみました。ああそういえばもう一つ、今日本で後継機選びで話題となったF4ファントムが展示されていたのにはちょっと複雑な気分になったよ。だって岐阜基地で毎日普通に飛んでんだからね。本場アメリカでは展示物だとさ。しっかりせんかい日本よ!情けないぜよ。

2011-12-26

another party


僕は不参加と思っていた妻のいとこの奥さんのBaby shower partyに多くの男衆も参加することが判明し、結局僕も子守りのためにかり出され総勢20名ほどのパーティーと相成った。そうは言ってもほとんど知った人ばかりだし、子供たちを野放図にしておいては完璧に整えられているヘレンの家に何をしでかすか分からないので、僕を監視役として置いておくことは適宜な配置と言える。義母と妻はこれまた朝から『デザートを持っていく』と言って何やら作り出し、そして午後3時にお邪魔するといつも完璧なヘレンの家はさらに磨きがかかって隙が無い。さらに奥へ進むと旨そうなAppetizer(前菜)が並び、そこへ妻が持参したデザートが加わり彩りを添える。しかし今回は女性が主役ゆえ僕は指をくわえて子供たちの後を追い、半地下のplay roomでジェフと一緒に子供たち(今日は6人)のお守りに取りかかる。お守りと言ってもソファーのマットレスやブランケットを使って砦を作る遊びで、これがまたむちゃくちゃにやりよる。子供たちが地下で奇声を発してる階上では、粛々とBaby shower presentが開けられ、喜びの声が聞こえてくる。ある程度落ち着いたところで子供たちと一緒に前菜やデザートをつまむ。これも旨かったねー。チーズもスモークサーモンも最高だった。義母が作ったクッキーも妻が持参したゼリーのようなものも、ヘレンが作ったカップケーキもどれもこれもうまかった。こんなもんばっか食べとるからすぐ太っちまうんだろうな・・などと思いながら子供たちに混じってバクバク食べたったけどね。

明日はどうやら飛行機好きの甥っ子に連れられて航空博物館に行くらしい。この博物館には実機が150機も展示してあるというから僕もかねがね『行ってみたいな』と思っていた所。零戦は見逃せないぞ。

2011-12-25

Christmas Day


朝、目を覚ますと娘たちは既に起きていて『サンタが来た!サンタが来た!』とはしゃぎ回っている。そんな様子を微笑ましく眺めながら義母が作るパフィパンケーキ(きのう書いた『フラッフィーパンケーキ』というのは僕の勘違いで間違い)を今か今かと待つ。そして香ばしいにおいに包まれた中、やってきました!メイプルシロップをたっぷりとかけて一口入れると・・思わずニンマリだ。いや〜うまかった。
そして朝食を終えると待ちに待ったプレゼント開け。娘たちは包み紙を豪快に引きちぎりながらどんどん開けてゆく。服や本やDVDにLEGOと、子供が喜びそうなものばかり盛りだくさん。おまけに僕や妻、それに義母の分もあってみんなでワイワイやりながらプレゼントを見せ合うのもまた楽しい。午前中はほぼプレゼントに掛かりきりになって過ぎてゆき、午後からは日本の正月と同様何もせずにただのんべんだらりと飲み食いを繰り返し、ゆったりとした時間を楽しむ。アパートメントから外を眺めると、時折ジョギングや犬の散歩に出かける人を見かける程度で、やはり人通りは少ないな。みな家族と過ごしているのだろう。
明日は妻のいとこの奥さんが来月出産を迎えるので、そのお祝いに出かけるという。普通は女性だけで行うそうなので僕がかり出されるかどうかは分からない。まあ、要請があったら行こうと思っている。

2011-12-24

Christmas Eve


時差の関係でシアトルはまだクリスマスイブだ。
この日は親戚がアメリカ中から集まってパーティーをする。会場となる妻のいとこの家に出向くと既に人が集まり始め、そのにぎやかなことよ。午後5時頃には皆が出揃いパーティーの始まりだ。総勢30人近くのうち、小さな子供たちが9人を占め元気なことこの上ない。僕は主に子供たちの相手を担当してめちゃめちゃに弄ばれる。
親戚の皆とは実に8年ぶりだが、それなりに歳をとった意外はほとんど変わらずといった印象だ。しかし8年前は誰も子供がいなかったのでその点だけは変わったかな。みなすっかり親らしくなった。
暖かい雰囲気の中、皆で食卓を囲み、皆で飲み、皆で近況や思い出話を語り合う。とてもとても良いクリスマス・イブだ。単なるお祭り騒ぎではないこんなアメリカのイブを経験できて幸せだと思ったよ。来年もぜひ参加したいものだ。

パーティーから帰るとすぐに娘たちを寝かせ、クリスマスプレゼントの準備に取りかかる。しかしその量には呆れたね。とんでもない量のプレゼントだ。そりゃ、こんなにもらえるならアメリカに来たいのも当然さ。おまけに妻や僕の分まで用意されているんだからありがたいね。明朝起きたら娘たちの最大の楽しみ、プレゼント開けが始まる。そしてクリスマスの朝食は妻のfamilyの伝統にのっとってフラッフィーパンケーキなのだ。楽しみはまだまだ続くぞい。

2011-12-23

USA


飛行機は定刻通りにシアトル・タコマ国際空港に到着した。ここの入国審査はとてもスムースで係官の対応もよく、ニューヨークのJFK国際空港とは大違い。空港には義母や妻の叔父さんが出迎えにきてくれて、義母がシアトルに引っ越し後初めて訪れるアパートメントまでは、アメリカらしい広〜い高速道路を走り抜け20分ほどで到着。その間外の風景を眺めながらどういうわけか『懐かしいな・・』と感じている自分に驚いた。何年もアメリカに住んでいたのなら分かるけど、僕の場合は長くても半年だったからね。でもそう感じたんだからそういうことなんだろう。確かに都市部にも関わらず大木が生い茂り緑が多く美しい。特にシアトルは風光明媚で、この日はお天気も良く言うことなし。地平線の遥か向こうには雪を冠ったロッキーの山並みが連なり実に清々しい。そしてマーサーアイランドにある義母のアパートメントのロケーションも最高だ。

明日からはさっそくchristmas partyに向け忙しくなる予定だし、しばらくは気の抜けない日々が続きそうだね。

2011-12-22

空へ


現在カムチャツカ半島沖上空を飛行中。
まだ成田を発って2時間ほどしか経っていない。シアトルまでは8時間半というからまだまだ先が長い。もうやんなったよ。
しかし成田はダメだね。出国審査では1時間近くも待たされたあげく、係官は『通っても結構です』なんて言いよるし、まったく腹が立つ。だって通すのが当たり前だろう。尊大ぶっていったい何様と言うんだ?
さあて、残りの時間をどうやって過ごそうか?三女の機嫌はとても悪いし、ゆっくりなんてできないな。毎回一人で子供たちの面倒を見ている妻はすごいよね。自分も体験してみてその大変さがよくわかったよ。恐れ入りました。

2011-12-21

出国前夜


いよいよ明日シアトルへ飛び立つ。アメリカに行くのは6年振りで、シアトルを訪問するのはなんと8年振りのことだ。
久しく国を出ておらず、パスポートは更新されまだどの国のスタンプも押されていない。以前はしっかり憶えていたパスポート番号も今はてんで分からず、まったく情けないような状態だ。それほど長く国内に留まっていたんだね・・。
シアトルでは妻の親戚が手ぐすね引いて待っているようで、ちょっと恐ろしさも感じる一方、久しぶりに会える喜びもある、いずれにせよ相当なる歓待を受けること間違い無しで、くったくたに疲れることだろう。何のための正月休みか分からないがこれとて修行。そう心得て踏ん張ってやる。

2011-12-20

人民よ


今日も慟哭する北朝鮮人民ばかりが映し出されているな。でも皆がみな本心じゃないだろうね。あれだけ経済が疲弊し飢えに苦しんでいる人々が、その張本人の死を嘆くはずはなかろう。いや本心から悲しむ人も確かに居るのだろうが、そういう人達は過労死の大将軍様から利益を受けて来た人達だけだろう。多くの人々は『金王朝』にうんざりしているはずだ。
今後、金正恩体制が確立しようがしまいが北朝鮮の人民にとって今の暮らしがただちに改善される希望はなく、その意味においてそこまで人民を追いつめて来た金王朝首脳部の責任は万死に値する。民主化などしなくても良いから、少なくとも子供達が餓死するようなことがない国にすることをキムではなく人民に求む。

2011-12-19

将軍様過労死


北の偉大な将軍様がお亡くなりになったげな。そりゃ、もう驚いたのなんのって。あんまりにもあっさりコロッと逝っちまったもんで、なんかあっけなかったと言うか、命ちゅうもんは分からんもんだいね。

さあ、これからどうなるんだろうね。TVでは盛んに専門家さんが意見を述べられておるが、誰も予想などできんだろう。長年抑圧されて来た人民にとってはまたとない解放のチャンスでもあるが、これはあくまで北朝鮮の外から見た見方であって、実際の国内の様子は違うのかも知れない。確かに人々に不満はある。しかしだからと言って『金王朝を打倒せよ!』とまでの過激な動きが発生するとは限らない。人々は今まで耐えに耐えて来た。そのまま今回の動揺を受け入れて耐え忍ぼうとするかも知れない。かたや『中東の春』で見られるような民主化を求める運動が起きる可能性もある。あの運動のきっかけはチュニジアの一人の若者の焼身自殺だった。彼の身を焦がした炎がそのまま人々の怒りに燃え移り、独裁者らを追いつめ追い払った。その炎はいまだに広がりを見せ中東を焼き尽くそうとしている。その焦土の跡からは一体どんな芽が芽吹くだろう?
この機会に北朝鮮に民主化を求める運動が起きなければ、正恩君の年齢からみてもこの後40年近くは独裁体制が維持されることになる。それを受け入れるかどうかは北の人民が決めることだ。この先北挑戦がどう変わろうと、変わらまいと我々は見守るしかない。いっそのこと中国が併合してしまえば、より安定するだろうに・・と思うのは僕だけだろうか?

2011-12-18

シャボン玉


朝のうちはあった日差しが時間とともに少なくなり、気温も下がって来た。こう寒くなってくると外に出るのも億劫になりがちだ。畑の作業も収穫くらいしかないので、最近は身体が鈍りがちになっている。そんな寒い中でも娘達は外に出て元気いっぱい遊んでいる。今日も9時頃から昼過ぎ近くまでずっと外に居て、いろいろと遊びを見つけて楽しんでいたようだ。中でもシャボン玉に熱中して、大玉のものをいくつも寒空に向かって解き放っていた。見ているとシャボン玉の表面は青紫色に輝き、いかにも冷たそうで『やっぱ夏のものかな・・』なんてぼんやり見送っていたが、シャボン玉はそんなことはお構い無しにぐんぐん高く舞い上がり、そして弾けて消えていった。次々と舞い上がってゆくシャボン玉に僕は何を見ているのかよく分からないが、その儚さには惹かれるのだ。
そんな夢想的なひと時も娘達の『シャボン玉の液こぼしてまったー』という言葉で現実に引き戻される。

2011-12-17

ダメダメな日


何をやってもダメな日はある。今日はそんな1日だった。
買い物に行っては買い物リストを持って行ったにもかかわらず肝心なものを買い忘れ、おまけに駐車場を出る時に何てことないポールに車の左後部を擦ってしまうし、お天気がよかったので布団を干しておいたら、午後から強くなった北西の風にあおられて布団が屋根から落ちかけ、それを回収すべく屋根にでて布団を引っ張ったら金属に引っ掛かってカバーが破れてしまうし、夕食後に三女を長椅子に立たせて遊んでいたら、ちょっと目を離した隙に長椅子から転げ落ちて、妻に猛烈に叱られてしまうし、ほんとにもうやんなっちゃうよ。
でもまあ、こんな日もあるさ・・ということで、ダメだった今日とはオサラバさ。

2011-12-16

初雪


予報通りの厳しい冷え込みで空は一日中時雨れ、晴れたり降ったりの繰り返し。吹き付ける風は凍りつくほど冷たく激しい。いよいよ冬本番の到来だ。夜のニュースではこの地方に初雪が降ったと言っていた。仕事からの帰り道に堤防上を走っていると、みぞれか雪か判断つきかねるものが降っていた。おそらくそれが市の北部や山沿いなどで雪として降ったのだろう。しかし散らついた程度で積もるものではない。夜に入り室内気温は8℃と寒いが、風は治まり雪がこれ以上降ることも無さそうだ。これから年末にかけて今回のような強い寒気が次々と南下してくるんだろうね。
こんな寒い夜は子供にひっついて寝るのが暖かくて一番だ。でも布団は着ないし、やたらと蹴ってくるわでなかなか落ち着いて眠れないのが困りどころだ。

2011-12-15

再度撃沈!


またイラストレーターが突然落ちて、完成寸前だった図面がどこかへ消えてしまった・・ほぼ半日分の仕事が無駄に終わったわけだ。
そりゃ、こまめに保存しなかった自分が悪いのかも知れないが、熱中してやっている時こそ保存するのを忘れてしまうものだ。それもよりによって最終仕上げ段階で落ちたことは精神的ダメージもかなり大きい。おかげですっかりやる気を無くしてすぐに帰ったよ。
それにしてもだ、あれだけ高額のソフトにもかかわらず自動保存機能がなんで無いんかね。呆れたことだよまったく。

さあ、これしきのことでめげずに明日もう一度図面を作り直そう。こまめに保存をすることを忘れずにね・・

2011-12-14

睡魔


眠たくてたまらない。
長女を寝かしつけようとしてそのまま寝入ってしまい、長女に起こされ僕を呼ぶ次女のもとへ。そこでまた次女より先にすっかり寝入ってしまい起きたのは1時間後。まだ夕食の皿を洗っていなかったので『洗わねば・・』と思いつつも、とてつもない眠気に勝てずソファーに横になったのが運の尽き、寒さに震えて起きたのが0時少し前で、そしていまブログを書いている。
少し寝たから眠気も覚めようもんだが、ちっとも変わらずやたらと眠い。ここ数日年賀状作りなどをしていて寝不足気味だったのが原因だろうか?とにかく眠りのサイクルから抜け出すことができず、脳の働きも悪い。ということで今日はここまで。もう寝ます。

2011-12-13

吉報


友人に女児が誕生したと言う報をもらった。
実は予定日が先月13日で、ずっと連絡がなかったもんだから気を揉み心配してたんだ。『出産時に何かあったんじゃないか?』てね。それで連絡したくてたまらなかったけど、彼女を信じて待ってたよ。そうしたらこの吉報だ。ばんざ〜い!よかったよかった。
どうやら予定日を13日も遅れてMちゃんは産まれて来たらしい。陣痛もひどかったそうだ。それでいまだに体調はすぐれないけど、がんばって面倒をみているらしい。僕と同じ年齢での初産はほんとうに大変だったと思う。よくがんばったよね。

メールには産まれて来た子への感謝も綴られていた。これで彼女も『母』になった。母は強し!それは身を持って知っている。やはり女性はすごい。それに比べりゃ男なんてもんは・・だね。

ああ、よかった。ほんとよかったとしか言いようがないほど嬉しいことだ。

誕生おめでとう、そして、ようこそMちゃん。

2011-12-12

朝恒例


今朝は長女に起こされた。
毎朝、まだ真っ暗な中6時に起きているが、今日は無意識のうちに目覚ましを止めていてまったくの夢見心地。『Daddy,Daddy』と言いながら長女に揺り起こされたのが6時半過ぎ。長女は7時15分には家を出るので、飛び起きて娘に寝坊を詫び、さっそく朝食の準備に取りかかる。我が夫婦の場合、どちらが食事を用意するといった決めごとなどなく『その時できる方がやる』という方式なので、三女に授乳中の妻をおいといて、せっせと焼きたてのパンを切り、ヨーグルトを出すなどしてテンポよく朝食を整える。そうこうしていると次女も起きて来た。次女の分も用意して、さらに自分のパンを焼き、やっと朝食に取りかかる。長女が登校する時間が迫ると妻が三女を抱いて降りて来て、そのまま長女と一緒に集合場所まで見送りに行き、その間僕は三女のぱんぱんになったおむつを替え、バタバタ暴れる三女に手こずりながら着替えを行う。戻って来た妻に三女を預けたあとは、いよいよJackieの散歩に出かける。この時期まだ日が昇らぬうちに散歩に出ても暗くて写真が撮れないので、食事の後に散歩をするようにしているのだ。
散歩から戻って来て、時間があるようなら畑を見回り、そしていよいよ出勤する。

このような毎日に、もう慣れてしまった。
日々はとてつもない早さで過ぎ、僕はまるでその流れに揉まれているかのようだ。でも、楽しいよ。

2011-12-11

土地の話


近所に住む知人はアウトドアの達人でもある。よく散歩の途中に会って、いろいろ話しながらその辺りを散策するが、その折に彼が気に入った土地があると言うので二人で何度か見に行ったことがある。その彼が今日我が家を尋ねて来て『いよいよ話がまとまりそうだ』と言う。以前から彼が目を付けていた土地が農協を通して売りに出ることになり、なんとか交渉して200坪近い土地を購入する目処がついたと言うのだ。その土地と言うのは我が家の表に流れる川を堤防沿いに200mほど遡ったところにあり、県道からも離れているため静かでとてもいいロケーションだと僕は思っていた。だが彼によると僕以外の誰もその土地の購入について賛成するものはなかったと言う。確かに目的が違えば価値ある土地には見えないかも知れないが、僕の生活スタイルから見ると余裕さえあれば『買い』の物件だ。もう60を越えた彼の歳から考えると『いまさらなんで?』という周囲の目が厳しいらしい。ご存命の老母も猛烈に反対しているとのこと。しかし現在住んでいる住宅は3階建ての大きな家ながら土地が狭く庭はまったく無い。かねてから息苦しいと思っていたところ、この土地の話しが出たので大決断を下したと言うわけ。
ただし土地を買って造成したらお金がなくなるので、今住んでいる家を売らない限り家は建てれないらしい。それでも時間をかけて自分の好きな木を植えるなどしてゆっくりと土地を育て、このロケーションを十二分に堪能したいという彼の願望は実現可能なイメージとしてよく伝わってくるし、なんか僕自身も楽しみになってくる。今日も『どんな木がいいかな?』なんて人生の大先輩と楽しく話しながら草ぼうぼうの田んぼを見ていると、なんだか愉快な気分になってくるのだ。

2011-12-10

初氷


予報通り今朝の冷え込みは厳しかった。今冬始めての氷点下、霜が降りて外はうっすらと白く染まり、メダカの火鉢には氷が張っていた。
初夏から今まで頑張って花を咲かせて来た西洋朝顔もこの冷え込みで完全にやられてしまい、たった一晩で見事に萎れ最後の時を迎えた。その他やはりミニトマトとピーマンも同様だった。しかし考えてみれば12月ももう半ばにさしかかる。昨年と比べても霜が降りたのはずっと遅かったように思うので、よく生きながらえたと言うべきだろう。
気象庁の発表する長期予報は当てにならないものとして、自分の感覚でこの冬の天候を見てみるとやはり暖冬になるのではないか?と思う。と言ってもカマキリの卵がかなり高い位置に産みつけられていることなどを見れば、ある程度の量の降雪があるのかも知れないし、まあ、よく分からんね。ただ、これまでが暖かかったのは確かで、大根の生長がやたらと早く、ブロッコリーなぞは花を咲かせようとしている始末。今回のような強い寒気の南下においても、北西の風は例年と比べ物にならないくらい弱く、穏やかと言ってもいいくらい。これが続けばさぞやぽかぽか陽気で過ごし良い冬になるのだろうが、そんなことを考えているとドカ雪が降ったりするんだろうね。
さあ、明日はラズベリーでも摘んで姪っ子のもとへ持って行ってやるかな。

2011-12-09

恵み


まだ初雪までとはいかないが、結構な冷え込みだ。おそらく明朝は霜が降りることだろう。夏場から生き残って来たトマトやピーマンも霜にやられて枯れてしまうだろうな。でももう12月も半ばに近いからね。夏野菜が枯れるのも当然だな。
冷え込みが厳しくなるとの予報だったので鉢植えのアロエとバオバブは軒下に避難させ、ここで冬の寒さを耐え忍んでもらう。なんとか枯れずに春まで頑張ってくれればいいんだけどね。その他のものは大体寒さに強いものばかりなのでなんとか越冬するだろう。ただ、ここひと月ばかりの間、週末ごとに鮮やかな恵みを与えてくれている我が家のラズベリーは、おそらく霜が降りると一気に枯れ、再び気温が上がる春まで眠りにつくだろう。甘酸っぱいラズベリーを贅沢にも口一杯に入れ味わう至福の時は暖かくなるまでお預けだ。今年もたくさんの恵みを与えてくれたラズベリーに感謝して、寒いうちに枝を打ち、肥料を施して、春に備えたいと思う。

2011-12-08

伝うべきこと


70年前の今日、破滅的な戦争が始まった。
日本政府はこの戦争を回避する術を持っていたはずだ。同様にアメリカも避けることが出来たはずなのに、真珠湾攻撃が行われてしまった。
ひとたび戦争が始まると人々は熱狂に包まれ、反戦を叫ぶ声は完全に消え、心に思うものは非国民と罵られた。
結果はどうだ?
300万人を超える日本人が死に、アジア全体では1000万人を超える人々が悲惨な最期を遂げた。
戦後70年。そう、あの戦争にまつわる苦しみが続く限り、何十年経とうと何百年経とうと戦後は続くのだ。

過去を知らずして未来を語るべからず
未来を想わずして過去を語るベからず

すべては繋がり、そして繰り返す

来るべき戦争を我々は回避することが出来るだろうか?この平和ボケしている現状こそ危ういものだ。
戦争は思わぬことで起きる。気付いた時にはもう手遅れなのは先の戦争の例を見ても分かるだろう。
戦争を『必要悪』と言う人もいる。だが、僕はその言葉を受け入れることが出来ない。そう割り切ることなぞ出来ない。
では、どうしたら戦争を避けられるか?
やはり広く国民にあの戦争の悲惨さを伝えてゆくしか無いだろう。体験者が亡くなりつつある中でそれも難しい状況ではあるが、我々の代でも伝えてゆくことを続けなければならない。そうすれば結果的に来るべき戦争を避けることが出来なかったとしても、遅らせることはできるのではないか?と思うのだ。
戦争は無いに越したことはない。あたりまえだ。しかし、『戦争は起きない』と思い込む心の隙を、狙う者達が居るのだ。

2011-12-07

ほんの70年前の出来事


真珠湾攻撃の日を明日に控え、先日録画しておいたNHK『証言記録 日本人の戦争』を見た。その内容の重さに改めて先人達が体験した地獄の苦しみと、戦後70年を経過した現在でも襲い続ける『戦争の記憶』の傷の深さを思い知った。
母方の亡くなった祖父も南方のトラック諸島に駐留し、そこで終戦を迎え生きて帰還したが、それ以外詳しいことは何も知らない。唯一祖父が白内障の手術で入院している時に『トラック島大空襲』の様子を少し聞いただけで、あとはその時に飢えをしのぐためサツマイモをさんざん喰ったので二度と喰わない、と言った程度のことを知っているだけだ。ネットで太平洋戦争中のトラック諸島について調べてみると、アメリカ軍の激しい空襲が何度も繰り返されたが、島にアメリカ軍が上陸することは終戦までなかったので、万歳突撃や玉砕といったことも起こらず、ゆえに祖父は生きて帰れたということが分かった。

祖父は戦争のことを自分から語ることはなかった。現在はミクロネシア連邦の一州でチュークと呼ばれるトラック諸島は当時それぞれの島が和名をつけられていたが、祖父が一体それらのどの島の防衛にあたっていたのかさえも知らない。いまでは手遅れだが、聞いておくべきだったと思っている。
なぜ知りたいか?
それは肉親が体験した戦争を、その口から聞き、子らに伝えてゆくことが大切だと思うからだ。僕はその機会を逃してしまった。悔やまれてならない。

2011-12-06

百害の源


政治家ほど潔さと無縁の者達はいないな。彼らは口を開けば大そうなことばかりを述べるが、その実中身は空っぽで自分の言ったことに対して一切の責任を取らない。政治家は他人には責任を取らせるが自分は取らないという最も質の悪い生物だ。そんなヤツらが国の政治を行ったとて、一体誰が信じようか?昨今話題となっている防衛大臣や局長に至ってもそうだ。彼らは『失言』したのではない。『本音』を語っただけだ。そりゃ、本音から突っ込めば沖縄の住民も怒ることは分かり切っている。今の政治家はそんなことも分からずに放言を繰り返すのだから阿呆以外の何ものでもない。しかし何度同じようなことを繰り返すのだろう。放言をする→騒ぎになる→辞めろと言われる→辞めないと言う→首相も『辞めなくていいよ』と言う→野党が怒って問責決議→結局辞める→また誰かが放言をする、大体こんな流れでもう飽きた。与党も与党だし野党も野党だ。みな同じ穴の狢だし、そろって大馬鹿者どもだ。いまはそれどころではないはずだ。どうも世界全体が暗い方向へと向かってゆくような感じがしてならない。杞憂ならばそれで良い。だが、政治乱れるとき国乱れる。古来変わらぬことだろう。
日本はなんとかしてこの方向性から抜け出し、未来に向けての一手を打ちたいものだ。残念ながらその緊迫した想いに一番欠けているのは当の政治家どもなのだ。

2011-12-05

風邪また風邪


まだ風邪のウイルスが身体のどこかに潜んでいるのだろう。ここ数日口の中が荒れ、なんか歯が浮いたような感じになっている。そうひどくはないものの胸のムカつきもある。しかし風邪を引いてからもうずいぶん経つなあ。いったんは治りかけたものの、いつの間にやら別の風邪が入り込んで来たようでなかなかスッキリと治り切らない。昨日、実家に電話したら、おふくろまでもが風邪で喉をやられてまったく声が出ない状態だった。そりゃあ毎日こんだけ気温差があれば体調崩すのも無理のない話しだ。巷ではインフルエンザの患者も徐々に増えつつあるという。まだ予防接種をしていないのでこちらも早急に手を打たねばならんな・・。その前にまずこの風邪を治してしまわねばね。
でもなんで風邪を引くとチョコを食べたくなるんかな?

2011-12-04

血の犠牲


楽しみにしていた『坂の上の雲』の最終章が始まった。もちろんその時間帯に見ることは叶わないので録画して、みんなが寝たあとにゆっくり鑑賞した。

あれは小学生の頃だったと思うが、友人の家が『三笠堂』という薬局をやっており、なんで『三笠』と言うのかを説明してくれたことがあった。なんでも彼のひい爺さんが日本海海戦で連合艦隊旗艦『三笠』に乗り組んでいたそうで、それにあやかって薬局の名にしたという。その頃東郷平八郎の名も憶えたし、バルチック艦隊や旅順要塞の激戦、203高地も知ったが、さすがに秋山兄弟のことまでは知らなんだな。とはいえ、その頃知ったものが迫力ある映像シーンで再現されるのを見ていると、子供の頃にかき立てられた思いが視覚化されてゆくようで感慨深いものがある。
それにしても日本人は突撃好きだね。機銃が待ち構えている陣地に肉弾攻撃するなんて考えられんよ。しかしこれが日露に始まり約40年後の太平洋戦争までそのままのかたちで続くんだから、如何に後世の人間が先人達の流した血の犠牲を顧みていなかったかがよく分かる。

2011-12-03

三女の宿命


床に落ちていた三女お気に入りの歯がため用噛み噛み玩具を拾い上げてふと思った。『こういうおもちゃをちゃんと毎日煮沸消毒している人もいるんやろなあ』と。三女のおもちゃはよく見ると埃がつき、そのまま口に入れてしまうとかわいそうなくらいだったので、夕食の食器と一緒に軽く洗って干しておいた。しかし我が家では煮沸消毒をしたことなど無い。これは妻とよくため息をつきながら語り合うことだが、子供も三人目ともなるといかに自分たちが長女に対して余分な力を費やして来たかがよく分かる・・と、しみじみ思う。何でも始めてというものは要領を得ないので、余計に心配したりして気を使うものだ。おむつに関してもパンパースじゃないとダメだみたいに、割高なのに使い続けたりしたものだ。それが次女になるとマミーポコなどの安売り対象になるものを多用したりして、『これで十分じゃん』なんて納得したりする。三女になるとパンパースも値を下げきて他の製品と価格差がなくなって来たので利用しているが、パンツタイプのおむつになったらまたぞろ安売り路線に走るだろうね。
そんな具合に『慣れ』によって子供の扱いもぞんざいになりつつあるが、いまではそれで十分だと思っている。変に神経質になって完全無菌状態で赤ちゃんを育てようなんて人も居るみたいだが、ある程度の雑菌は小さいうちから身体の中に取り込んでおかねばならんのだよ。そうせんとちっとも身体は強くならんだろうに。
我が家の三女なんてみんなに風邪をばらまいたあと、すっかり自分だけ良くなってご機嫌スマイルの連発さ。

2011-12-02

義母離日


今回約2週間という短い滞在を切り上げて、義母が飛び立って行った。
この年末には僕を含めた皆でアメリカに行く予定なので、義母が一足先にアメリカに帰り僕達の受け入れ態勢を整えると言うことだ。
毎度のことだが今回も大いに助けてくれて、僕ら夫婦も日々の雑多な仕事から幾分か解放され、それなりに息を継ぐことが出来た。
義母も、小さな子供が3人も居るとこんなにやることが多いのか!と、改めて子育ての多忙さを実感したそうで、次回の滞在は少なくともひと月にする、と言い残して去ったという。
とまれ義母が居なくなって負担が一気に増したよ。さあ、なんとか乗り切ってゆくぞー。

2011-12-01

職人


それはたかだか2m四方に満たない面積の再舗装だった。
予算の関係で舗装業者には厳しい額で仕事を依頼していたため2〜3人で来て作業するものだと思っていたら、なんと車5台を連ねての現場入り。ガードマンを含め総勢8人でのお出ましにはこちらもあっけにとられ『なんと大げさな・・』と、いぶかしんだほど。ところがいったん仕事にかかると、その作業振りにはつくづく感心させられた。そう、彼らはチームで行動しているようで現場の面積に関係なくいつもこのメンバーで各現場を回り、きっちり仕事をしてくるようだ。アスファルト舗装を始めからじっくり観察するのは今回が始めてだが、そのこだわりと職人技にはほれぼれする。アスファルトを適量に盛り、それをレーキで均し転圧してゆく。その動きにはまったく無駄がなく、こちらが『そこまでやるのか・・』と唸るほど細部にまで徹底してこだわり仕上げてゆく。チームに居る若手に対しては厳しい言葉で指示を出しているが、一方では『この場合はこうしたほうがいい』と言ったように、丁寧に教えて若手を育てようとしている。
アスファルトを敷き直すといった一見地味な作業でも、それぞれがこだわりを持って作業することで『光る』ものになることをあらためて教えてくれた気がする。