2008-06-11

知ること


いろいろな国を旅していると今の日本では起こり得ないようなことに遭遇することがしばしばある。それらはかつての日本で普通にあったことだったり、まったく別次元のことのように感じることだったりと様々だ。旅人はその一つ一つの事象に出くわした時、うろたえ、呆れ、びっくり仰天し、激しく消耗しながら自分の感覚の幅を広げてゆく。ある人はそれらが耐えきれずに自分をシャットアウトし距離を置くような反応を見せるし、またある人はそれらの刺激によって自我を覚醒し、新たな自分を発見したりする。それらは良い悪いと言う問題じゃなく『自分はそう反応した』と言うだけのことで、いずれにせよ何らかの変化を自身にもたらしているのは確かなことだ。
今の時代、インターネットを通してありとあらゆる知識を得ることができ、あたかも自分はそれを知っているような錯覚を得るが、実際には体験や経験に裏打ちされない知識なぞ単なる知識にしか過ぎず、『知る』ことには程遠い。どうも昨今はこの『知る』ことがないがしろにされ、知識ばかりが先行しているような印象を受ける。例えばだ、電車の発車時刻を完璧に知っていても、その電車がまったくこなかった場合『さあて、どうするか?』という所から『知る』ことが始まるのだ。

For The People Of Tibet

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