2008-06-09

屈辱と怒り


早速、秋葉原無差別殺人事件の容疑者に対する差別化報道が始まった。このような事件が起こると必ず決まったパターンで容疑者が如何に変わり者で危険人物だったかを報道し、彼は『異常者』だったゆえ我々とは違うのだ!と思い込ませるような方向へと人々の心理を持ってゆく。その報道を見ている方も自分が彼と同じであるはずがない、と思うがためごく自然に偏った報道でも受け入れることができてしまうのだ。容疑者を差別化するための報道で最近目立つコメントは『キレ易い』や『キレると怖そう』といったもの。大抵の場合学生時代の同級生などによると・・といった展開なのだが、多感な時代は誰しもそんな時があるものでそれから10年後に事件を起こしたからと言って、そのときの彼が原因だったとはまったく立証できるものではない。それはあくまでも不当な差別化工作だと僕は思っている。それにしてもなぜ人々は『彼と自分達は違うのだ』と思い込みたいのだろう?彼が事件に至るまでの様子をネット上に書き込んでいたことも盛んに報道され、彼の『異常者』ぶりを煽っていたが、むしろ几帳面に淡々と書き込みを続けるその態度を見ると『ああ、誰かに止めてもらいたかったのかな・・』とも感じる。彼が無意識のうちに発していたであろうそのメッセージを結局誰も受け取ることはできなかった。ゆえにその書き込み自体がさらに彼を孤独にし、追い込み、殺人を決行させるまでに至ってしまった。
僕は問いたい、彼がそこら辺にいる同じ年代の派遣労働者と特別どこが違っているのか?を。
彼と同じタイプの人間なんて自分がそうであったようにそこら中にいる。それぞれがそれぞれなりの屈辱感や怒りを持って生きている。彼に『異常者』のレッテルを貼るのは楽なことだ。しかしそんなことをしても第2、第3の彼が現れるだけなのだ。彼を凶行に駆り立てたものは何だったのか?おそらく鬱状態であったはずの彼の心の闇は、ほんとうは何を欲していたのだろうか・・

For The People Of Tibet

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