『多様性』という言葉をよく聞く昨今、思うことがある。ここまで様々なことについて多様性、多様性と連呼されるのはその実多様性が見直され始めているのではなくて、多様性が今現在もかなりのスピードで失われつつあるが故に、危機感から叫ばれているのではないかと思うのだ。それは動植物に限らずあらゆる局面で感じることができる。例えば日々着実に進行しつつあるグローバリズムがそうだ。物事の効率化・合理化を徹底的に進めると、当然多様性とは正反対の単純化・画一化が行われ、規格・系列化されたものだけが残る。そんな世界的時勢の流れの中で『多様性』を訴えることは断末魔の叫びでしかない。
更には特定外来生物を駆除する動きも多様性に反していると思うが、どうだろう?確かに特定外来生物による在来種への圧迫は厳しく、絶滅したりその恐れのあるものが非常に多い。しかし一方で在来種を守ろうとするその活動は多様性に反してはいないのだろうか?現時点で見れば在来種と外来種ははっきりと線引きされているが、そもそも長い年月の中で混ざり合って来たはずだ。それをこの一点をもって2つに分けることになんの意味があるのだろう。
どうも世界的な状況は『多様性』と唱えつつも、その多様性を拒否しているとしか思えない。
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